察するチカラと協働するチカラ ①

察するチカラと協働するチカラ。

先日、こんなことがあった。

筆者が自宅から自転車に乗り、2駅先のカフェに向かっている途中の出来事。筆者の自宅は千葉県のトカイナカの駅前の閑静な住宅街にあり、そこから二駅先といっても10km程度の距離がある。

その路線を中心線として、平行して線路の外側に国道あり、線路側には信号の無いバイパス的な本線、その外側には信号のある旧道があり、どちらも片側2車線の広い道路だ。その旧道の歩道を、自転車で走る。トカイナカなので、歩道の外側には雑木林や整備され忘れた造成地等が多く、そこからはみ出てくる雑草や木の枝が歩道を狭くしている。そしてさらに、車道側のコンクリートと歩道のアスファルトの隙間から逞しく生え出てきている雑草もモジャモジャで、歩道はその両サイドからの木々の侵略によって幅が多くの場所で半分以下に狭くなっている。

トカイナカの住宅街以外の国道わきの歩道なので、歩いている人はほぼ居ない。筆者のように自転車に乗っている人はチラホラいるが、トレーニング的にサイクリングをしている人は歩道ではなく車道の端を走るので、歩道上ですれ違うことはほとんどない。時間的には午前11時なので、自転車通学の学生も居ない。

そんな晴れた昼前の、トカイナカの片側二車線の国道の歩道を自転車で走る筆者に対向するように、歩道上をランニング中の短パン姿の女性が迫ってきた。

歩道は本来3m程度の幅なのだが、両脇から草木が侵略してきているため、走れるのは1mから1.5m程度の幅しかない。

自転車とランナーがすれ違うには十分な幅だが、筆者と対向してきている女性ランナーが自転車の筆者とすれ違うだろう地点から、女性は20m程度手前で停まった。そして左腕のストップウォッチを見て右手でボタンを押してタイムを止めたような仕草をしていた。

筆者は一瞬、はて、どうしてそこで停まったのかな? と思ったが、筆者が自転車で近づくにつれ、その女性ランナーの目の前に、歩道の外から出ている木の枝が、歩道の半分以上に出っ張ってきているのがわかった。季節は冬なので葉がない木の枝が出てきている。筆者は乱視により視力が低下しているので、それを遠くから確認することができなかったのだ。

女性ランナーがその木の枝の前で停まってから、1秒未満の瞬間的な時間経過で筆者はその状況を理解し、筆者は自転車の速度を上げて、女性ランナーの停止時間ができるだけ短くなるようにした。

その筆者の自転車の速度を上げた姿を女性ランナーが見て、そして筆者と女性ランナーが近くなり、すれ違うまでの2秒程度の時間で、筆者は笑顔で少し頭を下げて走った。そして、女性ランナーは筆者が気を遣って自転車の速度を上げたことを察してか、同じく笑顔で微笑み返してきた。

女性ランナーは左手のストップウォッチでタイムを図りながら走っていたので、おそらく何かしら競技をする人なのかもしれない。

すれ違った後、このやり取りでの心地よさを感じながら、ふと思った。

これが協働のチカラの重要な要素なんだろうな、と。

筆者はその後、目的地であるカフェに到着し、心地よい環境の中で、クリスマスソングを聴きながら、騒ぐこともないマナーのよい周囲の客とともに、カウンターで独りコーヒーを飲み、落ち着いて回想しながら、早速感じたことを記録しようと、この文章を書き始めた。

先ほどの筆者とその女性ランナーは、互いに言葉でコミュニケーションはしていない。そして、すれ違う瞬間まではアイコンタクトもない。しかし、状況を互いに判断し、この先起こりうることを互いに予測しながらアジャイルに対応した。そうして木の枝で歩道の使える幅が狭くなっているという制約を乗り越えた。それも心地よい感情を残して。

人以外の要素はほとんどが静的なものだ。草木によって狭くなっている歩道も、目で見て分かる。木の枝が突然モンスターになって襲ってくることもない。しかし、人は動的だ。女性ランナーも自転車に乗っている筆者も、動いている。そして停まることもある。速度を変えることもある。我先にと猛スピードで突っ込んでくるかもしれない。そのような動的な要素だ。包括的に見ると、静的要素の多い中に動的要素が入っている複雑系でもある。

その動的な要素でもある、人と人によって制約を乗り越えるという行動は、いわば協働だ。複雑系の中での協働だ。そのような協働でも、互いにコミュニケーションを取れないような状況においては、他者の行動を察するチカラというものが重要だ、と感じた。もしかしたらこうするかもしれない、やはりこうした、いや、違う行動になった、じゃあこうしよう、など。

・・・つづく。