察するチカラと協働するチカラ ②

・・・つづき。

カフェでゆっくりと回想しながら、ふと思い出した。

筆者は都心で働くビジネスパーソンでもあり、丸の内から上野まで歩いてから電車に乗ったりもする。そのような都心、とくに皇居の外堀や日比谷通りの歩道を歩いているときに遭遇するランナーは、そんな気遣いをしない人が多いと思い出した。

歩行者の直ぐ傍をスピードを緩めず走ってゆくランナー。自転車も似たような感じの人も多い。歩行者が少し進路を変えただけで衝突するだろうに、といつも思う。

はて、では、そのような都心の乱暴なランナーや自転車は、察するチカラが弱いのだろうか?

察するチカラが弱い人もいるだろうし、察するチカラはあるが発現させていない人もいるだろう。察するチカラが弱い人は、まず察するチカラを鍛え磨かなければならない。察するチカラを発現させていない人や発現できていない人は、発現させるための動機が必要なのかもしれない。それは気遣いなのかもしれない。はたまた、ケーススタディーなどでの思考材料を増やすことなのかもしれない。

サイコパス的な素養のために、察するチカラを高めることができない本質の場合もあるだろう。

人はそれぞれ思考特性も行動特性も異なる。遺伝子で固定化されている部分も、エピジェネティックで発現が変化する部分もある。トレーニングで身に着けたスキルとして行動できるものも多くある。人はみな同じではない。個々人によって異なる。その違いを含めて察することができなければ、先ほどの女性ランナーと筆者のようなアジャイル対応は難しいのかもしれない。

観察し、過去に仕入れた情報を含めて類推・予測し、動く。それを高速で回す。お互いに。そうやって、言語というコミュニケーションでは追いつくことのできないような処理速度で協働する。阿吽の呼吸だ。

一般的なチームや組織では、阿吽の呼吸だけでは協働が難しい。互いに阿吽の呼吸で動けるような状態になるまでトレーニングすることができないからだとも思う。であるので、形式的に、特に言語情報を基盤としたコミュニケーションで協働しやすいような環境を整備する。そうすることによって、協働の基盤は強固になるだろう。しかし、それはあくまでも基盤であり、基盤の上に変化する環境に対応し臨機応変に柱や梁は壁などの成果物という構造物を作ってゆくには、さらに別の何かが必要だと考える。それが、阿吽の呼吸までいかなくとも、アジャイルに対応しあう協働のチカラなのだと考える。

少し場面は異なるが、似たような経験がある。

筆者はバイクに乗る。先ほどの件のような人力バイクではなく、エンジン付きのバイクだ。

筆者は北海道生まれ北海道育ちであり、その後は神奈川県や千葉県に住み都心で働くビジネスパーソンでもある。北海道時代からバイクに乗って北海道を走っていたが、特に夏の北海道はバイク乗り・ライダーには聖地でもある。夏の期間、内地、つまり道外から上陸してきたバイク乗りは、互いに交流をする。その交流は、道ですれ違った際にも多い。「ヤエー」といわれる、特に夏の北海道を走っているバイク乗りがすれ違いざまに交わす、サインだ。ピースサインや、グッドラックサイン、バイバイ、サムアップなど、さまざまなサインを、アクセル操作で離すことが難しい右手ではなく、フリーになる左手を上げることで行う。

北海道に上陸した喜びを表現する人も、相手の安全を祈願してグッドラックを送る人も、いろいろといる。そのサインを送りすれ違う瞬間は、道を走るという行為と、ご安全にという行為と願いが入り混じった、似たような価値観を共有する仲間であり、一瞬の協働でもある。

もちろん、内地から北海道に上陸したバイク乗りか、そうではないバイク乗りかによって、対応は変わる。ほとんどの場合、内地から北海道に上陸したバイク乗りはバイクのタンデムシート側に大きな荷物を乗せて走っている。互いに「ああ、あれは同類だな」と察してからサインを送るのだ。であるので、タンデムシート側に大荷物を積んでいないバイクにはサインは送らないことが多い。それは地元をツーリングしているバイク乗りであったり、日常でただ単にバイクに乗っている人の場合が多いからだ。

しかし、時々、タンデムシート側に大荷物を載せた地元の農家の人に手を振ってしまうこともある。そんな時は少し恥ずかしい思いを感じながら笑って走り抜けるだけだ。

そのような勘違いをできるだけしないように、タンデムシートの大荷物の、対向車から見えやすい右側にはみ出すように、「ホクレンの旗」がなびく様にすることも多い。「ホクレンの旗」とは、北海道の「ホクレン」のガソリンスタンドで給油すると、昔は無料でもらえた、今は購入する、30cm程度のポールに30cm程度の三角の旗のついたものだ。その旗を装着して走っているのは、内地から北海道に上陸した証、のように使える。いわば、協働のための形式的なルールのようなものなのかもしれない。

話は戻り、そしてこれからの協働のチカラで思うのは、近年のAIによる価値創造やオペレーション効率化などが急激に進化している中で、人間は、再び、自分たちのチカラを高めるために、協働のチカラを鍛え磨きなおすフェーズになってきているのではないか、とのことだ。

情報化社会により人と人がリアルに集わなくとも成果物がつくられやすくなった時代を多く経験し、しかしその半面、協働するチカラが低下してしまった人も増えた感じを受けている。

人と協働することが苦手。だから、独りでやる。テクノロジーを活用して。それでもよい。しかし、AIによってカバーできることが急激に増えている現在、もしかすると、そのように協働するチカラを鍛え磨くことから遠ざかった人々は、AIという急激に進化する競合に対して競争優位を低下させてしまうかもしれない。もし、そのような世界の中で、人がほしいものは、先ほどの女性ランナーと自転車の筆者がすれ違ったときのような協働であり、その協働を互いに心地よく笑顔で挨拶して完了できたような、気遣いを含めた人間味ある行動ができるチカラ、なの、かも、しれ、ない。な。